第1章 はじめに:相続登記の成功が「不動産処分の成功」とは限らない罠
「認知症の母親を含めて、家族全員でなんとか遺産分割協議を終え、自宅の名義変更も法定相続分で無事に完了した。これで一安心、いつでも実家を売却して母の施設入所費用に充てられる。」
そう安堵しているご家族が、いざ不動産の売却手続き(売買契約や決済)の段階に入った瞬間、青天の霹靂とも言える現実に直面することがあります。それは、「相続登記はできたのに、不動産の売却は認められない」という、実務上極めて頻発している問題です。

近年の法律改正(令和6年4月施行)により、相続登記の申請が義務化されました。これに伴い、「罰則(10万円以下の過料)を避けたい」「とにかく名義を変更しなければ」と、焦って登記手続きを進めるご家族が急増しています。しかし、この「とりあえず登記を済ませる」という行為の裏に、不動産を完全に凍結させてしまう決定的なリスクが隠されていることは、一般の市民はもちろん、専門家ですらも見落としがちです。
本記事では、全国でも非常に珍しい「障害者・認知症専門の相続」を専門的に取り扱う特定行政書士の視点から、この問題が起こる論理的な原因と、実家や所有不動産を凍結させずにスムーズな売却を実現するための決定的解決策となる遺産分割協議の内容について、実務的なステップを交えて詳細に解説します。
第2章 なぜ「遺産分割」ができても「売却」はできないのか?(意思能力の決定的なギャップ)
この問題の根源には、法律上の「意思能力(物事を判断する能力)」に対する、一般のイメージと実務現場(銀行、法務局、司法書士、不動産業者)における判断基準の決定的なギャップがあります。
1. 遺産分割協議ができる能力
認知症と診断されていても、症状が軽度〜中程度であれば、有効に遺産分割協議を行うことができる方はたくさんいらっしゃいます。 実務上、遺産分割協議を円滑に進めるための目安として、以下のポイントが挙げられます。
- 日常的な会話や意思疎通が円滑に成立するか
- 「お金」や「相続人同士の関係」についての基本的な話を理解できているか
- 自分の名前を漢字で正確に署名し、実印の押印ができるか
- 市役所で印鑑登録を完了させ、印鑑登録カード(実印・印鑑証明書)を用意できるか
認知症検査の結果が軽度~中度であり、あるいは症状に波があったとしても、本人が「お父さんが亡くなったから、誰も住まないこの家を売ってお金を法律どうりに分けるよ。」といった基本的な財産分配に納得し、自筆で署名して印鑑証明書を添付できれば、その遺産分割協議は法的に有効に成立します。客観的に意思能力があると判断されるため、法務局での相続登記もすんなりと通る可能性が高いです。

2. 不動産の売却(処分)に求められる高度な能力
しかし、問題はここからです。遺産分割協議という「誰がどの財産をもらうか」という身内での家族間の大まかな合意を理解できても、「不動産を第三者に売却する」という行為は、法律上「極めて高度な処分行為」になります。
不動産の売却には、以下のような極めて複雑な判断と知識が求められます。
- 売買価格(数千万円単位の取引)の妥当性の判断
- 売買契約書に記載された、複雑な特約(瑕疵担保責任、境界明示義務、契約適合責任など)の理解
- 売却に付随して発生する費用(譲渡所得税、仲介手数料、登記費用など)の把握
- 売却したお金受け取り方(分割払いや控除)

不利益を理解して契約に臨む必要があるため、単に「家を売ってお金を得る」という言葉を理解しているだけでは足りません。 いざ売買契約を結ぶ段階になると、買主側の司法書士や不動産業者は、取引の安全を確保し後日の紛争(「あの時、認知症で正常な判断ができなかったから契約は無効だ」と訴えられるリスク)を防ぐため、非常に厳格な面談を行います。
この面談において、本人が「なぜこの価格で売るのか」「売却後の税金や特約はどうなっているのか」という質問に対し、曖昧な受け答えをしたり、理解していない様子を見せたりすると、司法書士や不動産業者は「意思能力(処分能力)が不十分である」と判断し、売却手続きをストップさせます。
結果として、「母名義への相続登記(家族との共有登記含む)は完了したのに、名義人である母が売却契約を結べないため、実家が永久に売れなくなる」という、最悪のフリーズ状態が発生してしまうのです。
第3章 安易な「とりあえずの共有」や「法定相続登記」が招く不動産フリーズ
相続時に遺言書がなく、かつ相続人の中に認知症の高齢者(または知的障害・精神障害のある方)がいる場合、多くの一般的な不動産業者や、福祉の事情に詳しくない専門家は、以下のようなアドバイスをしてしまいがちです。
- 「とりあえず法定相続分通りに不動産を分けて登記(法定相続登記)をしておきましょう。成年後見人をつけずに登記できますよ。」
- 「お母さんの権利も守るために、お母さんと子どもたちの共有名義にしておけば公平です。」
しかし、これらは「絶対にやってはいけない選択肢」です。

1. 共有名義・法定相続登記が招く「地獄」
不動産を共有名義(例えば、母1/2、長男1/4、長女1/4など)にして登記を完了させた場合、将来的にその不動産を売却、建て替え、あるいはリフォームするためには、「共有者全員の有効な同意(意思表示)」が法律上必要となります。
もし、売却のタイミングで名義人の一人であるお母さんの認知症が進行し、契約内容を理解できなくなっていた場合、前述の通り売却手続きはフリーズします。 このフリーズを解除するためには、お母さんに「成年後見人(または保佐人・補助人)」を家庭裁判所に申し立てて選任してもらうしか、物理的に方法がなくなってしまいます。

2. 成年後見制度を一度利用するとなかなかやめられないリスク
「必要になった時点で、その時だけ成年後見人を付ければいい」と安易に考えてはいけません。 現行の成年後見制度には、以下のような極めて重いデメリットと現実があります。
- なかなかやめられない:不動産売却という「その一時的な目的」のためだけに申し立てたとしても、一度後見人が就任すると、本人が亡くなるまで原則として制度を解約・終了することはできません。今後法改正が行われる予定ですが、法改正によっても家庭裁判所の関与が必要になる可能性が高いと考えられます。
- 多額の報酬負担:司法書士や弁護士などの専門職後見人が選任された場合、毎月2万〜5万円程度の報酬が本人の財産から引かれ続けます。本人が若かったり、長生きされたりした場合、累計の支払額は「1,000万円を超える」ことも珍しくありません。
- 家庭裁判所の厳格な支配:成年後見人は本人の財産を「守る」ことが最大の義務であるため、たとえ実のお子さんであっても、お母さんの口座のお金を自由に動かすことは一切できなくなります。
- 家庭裁判所は不動産売却を簡単に許さない:成年後見人がついた状態で自宅(本人の居住用不動産)を売却するには、家庭裁判所の事前の「許可」が必要です。本人の生活費や施設費用が本当に枯渇しているなどの圧倒的な必要性(正当な理由)がない限り、家庭裁判所は売却許可を簡単には下しません。
「良かれと思って」不動産を共有にしたり、法定相続通りに登記してしまったりした結果、家族全体の財産が完全に第三者の管理下に置かれ、凍結されてしまうのです。
第4章 決定的解決策:不動産フリーズを回避する「代償分割」の全貌
認知症の高齢者が相続手続きに関与しつつ、不動産を一切凍結させずにスムーズに第三者へ売却するための、実務上極めて有効な防衛策が「代償分割(だいしょうぶんかつ)」です。
1. 代償分割の基本的な仕組み
代償分割とは、遺産分割協議において、特定の相続人(例えば、健常で判断能力がしっかりしており、フットワークの軽い長男など)が不動産の所有権を「100%単独」で相続する代わりに、他の相続人(認知症のお母さんなど)に対して、その不動産の価値に相当する「代償金(現金)」を自分の財産や相続した他の預貯金から支払う(提供する)という分割方法です。
2. なぜ代償分割だとスムーズに売却できるのか?
この方法を取ることで、不動産の名義は「完全に健常な長男の一人だけのもの」になります。 長男が不動産の単独所有者となるため、将来の売却時に意思能力を問われるのは長男一人だけです。長男自身の判断で、いつでも不動産業者と交渉し、希望するタイミングで売買契約や登記手続きを100%スムーズに進めることができます。司法書士や不動産業者から「お母さんの意思が確認できない」と難癖をつけられてフリーズする心配を解消できる可能性が高くなります。
3. 本人にとってもメリットが大きい「現金の柔軟性」
「お母さんに不動産を渡さないのは、財産を奪うようで不条理ではないか」と考える必要はありません。認知症の高齢者にとって、維持管理が大変で処分も困難な不動産の持ち分を持つこと自体が、むしろ将来の首を絞めることになります。
お母さんには、不動産の持ち分の代わりに、いつでも引き出して使いやすい「現金(普通預金)」という形で財産を確保してもらいます。 現金であれば、以下のような柔軟な財産運用や本人のための支出が可能になります。
- お母さんの口座から生活費や介護費用、老人ホームなどの施設入所一時金をスムーズに支払う。
- キャッシュカードや暗証番号を信頼できる同居家族(キーパーソン)に元気なうちに託しておくことで、窓口に行かずに本人のための日常的な費用を柔軟に引き出して活用できる。
本人の生活の安定を現金によって十分に担保(保護)しつつ、家族全体の不動産という重要資産の流動性を守ることができる、極めて論理的で温かみのあるアプローチなのです。

第5章 代償分割を実務で成功させるための重要ポイントと税務知識
代償分割は極めて強力な手法ですが、実務で行う際には、税務上および法的なトラブルを防ぐための厳格なルールを守る必要があります。
1. 遺産分割協議書への「文言の明記」は必須
よくある実務上の失敗は、遺産分割協議書に「代償分割を行う」という文言を正しく記載しないことです。
単に、
「自宅不動産は長男が相続する」
「長男はお母さんに個人的に1,500万円を支払う」
というような書き方をして、実際にお金を移動させてしまうと、税務署から「長男からお母さんへの『個人的な生前贈与(贈与税の対象)』」とみなされ、贈与税が課税されてしまうリスクを残すことになります。

2. 相続税の「配偶者控除」や「障害者控除」との絶妙なバランス
相続税がかかる規模のご家庭(基礎控除:3,000万円+法定相続人の数×600万円を超える資産がある場合)では、本人の取り分を調整する際に、税金上の特例を最大限に活用する必要があります。
- 配偶者の税額軽減(配偶者控除):お母さん(配偶者)が相続する財産は、1億6,000万円(または法定相続分相当額)まで相続税が非課税になります。代償分割で現金を正しくお母さんに配分することで、この配偶者控除をフルに活用し、家族全体の相続税を劇的に安く抑えることができます。
- 障害者控除の活用:お母さんに障害がある場合(または相続人の中に知的障害・精神障害がある方がいる場合)、相続税額から一定額(85歳までの年数×10万〜20万円)を差し引くことができる非常に強力な「障害者控除」が使えます。 ただし、この強力な障害者控除は、「対象となる障害者本人の相続分(取得財産)が『完全な0円』の場合は1円も使えない」という厳格なルールがあります。
これらのことを配慮して、代償分割を行っても良いかどうかを判断しなければなりません。
3. 字の練習と事前(元気なうち)の印鑑登録
遺産分割協議を行うためには、本人が「自筆で署名」し、役所に登録された「実印で押印」し、その「印鑑証明書」を添付することが手続き上の絶対条件となります。 どれほど本人の頭がはっきりしていても、手が震えて自筆で漢字の名前が書けないだけで、銀行や法務局は手続きを一切認めてくれず、結局成年後見人を求められる結果になります。
- 今のうちに名前を書く練習をする:本人が漢字で自分の名前を正確に書けるよう、日頃から練習しておくことは、非常に簡単ですが実務上最も強力な「親なきあと・認知症対策」です。
- 印鑑登録を早く済ませておく:認知症が本格的に進行する前の「軽度の物忘れ」の段階で、必ず役所の窓口で印鑑登録を済ませ、実印と印鑑登録カードを本人(または家族)が大切に保管しておいてください。症状が進んでからでは、役所の窓口で本人確認や意思確認ができず、新規の印鑑登録が拒否されてしまう可能性が非常に高くなります。
第6章 事前に対策を行うための「遺言(公正証書遺言)」の重要性
これまでは、すでに相続が発生してしまった後の「遺産分割協議における代償分割」について解説しましたが、そもそも「親が元気なうちに『遺言書』を作成しておくこと」こそが、将来の遺産分割協議そのものを100%不要にするため、最大の防御策となります。
1. 遺言があれば「遺産分割協議」が不要になる
意思能力が衰えた相続人がいる状態で遺産分割協議を行うのは、常に「後日、無効を訴えられるかもしれない」というリスクと背中合わせです。 しかし、亡くなった被相続人(親など)が生前に有効な遺言書を残していれば、その遺言書に記載された内容の通りに直接、預貯金の解約や不動産の名義変更(相続登記)を進めることができます。相続人全員による話し合い(遺産分割協議)自体を法的に完全に省略できるため、成年後見人の介入を防ぐことができます。
2. 証拠力の高い「公正証書遺言」を選択する
自筆証書遺言は、自宅で手軽に作成できるメリットがありますが、後から他の親族などから「これは本人が認知症の時に無理やり書かされたもので無効だ」と争われるリスクが残ります。 そのため、認知症や障害のあるご家族がいる場合は、必ず公証役場で作成する「公正証書遺言」を強くお勧めします。 公証人という法律の専門家が、本人の意思能力を確認した上で作成するため、裁判や対銀行、対親族において、圧倒的に強力な証拠力を発揮します。

3. 必ず「遺言執行者」を指定しておくこと
遺言書を作成する際、最も重要なポイントは、遺言の中で必ず「遺言執行者(信頼できる健常な長男など)」を明確に指定しておくことです。 遺言執行者とは、遺言の内容を実際に実現し、単独で銀行の解約や登記手続きを行う権限を持つ者です。 この遺言執行者の指定が抜けていると、たとえ有効な遺言書があっても、結局その手続きのために相続人全員の同意(または家庭裁判所への遺言執行者選任申し立て)が必要になり、その過程で認知症の相続人に成年後見人をつけなければならなくなるという本末転倒な事態が起こります。遺言作成時は、「信頼できる家族(または専門家)を遺言執行者に指定する」という鉄則を絶対に忘れないでください。

第7章 おわりに:福祉と法律の温度差を埋め、わが家にとって最良の選択を
「障害があるから成年後見」 「認知症が始まったから、もう何も手続きはできない」
そのような一律の判断を押し付け、安易に成年後見制度の利用を勧めてくる銀行の窓口担当者や、福祉現場の専門家、さらには福祉に関しての経験が少ない士業は数多く存在します。しかし、言われるがままに制度を利用し、後から「こんなに重い金銭的・心理的負担が一生続くなんて知らなかった、やらなきゃ良かった」と、地獄のような後悔に苛まれるご家族が後を絶たないのが冷厳な現実です。
成年後見制度は、意思決定をサポートする非常に強力な盾となる一方で、家族の裁量を完全に奪い去り、家族を財産管理から完全に排除してしまう強い矛でもあります。
大切なのは、本人の現在の「本当の能力(症状の程度や自筆の可否)」を客観的に見極め、国の制度に頼るべきか、それとも「遺言」や「代償分割(遺産分割協議)」などの家族のチームワークと法的な工夫によって成年後見を回避(または開始時期を最大限先延ばし)するべきかを、慎重に検討することです。

法律の冷たい杓子定規な解釈だけではなく、福祉の現場での豊かな実務経験を持ち、ご本人とご家族の生活全体を優しく見守ることのできる専門家と共に、一歩ずつ丁寧に対策を講じていくことこそが、残されたご家族の安心で穏やかな未来を創り出す最大の鍵となります。
「わが家の場合は、どの対策がベストなのか」
元気な「今」だからこそ、後悔のないオーダーメイドの準備を、ぜひご家族で話し合って始めてみてください。
特定行政書士花村秋洋事務所は社会福祉士・介護福祉士等の福祉資格と、20年以上の豊富な現場経験に基づき、全国のご家族の「成年後見人をつけない相続・遺言」を全力でサポートしています。


